豊臣秀吉が九州の統一に乗り出した1587年(天正十五年)12月6日 に立花宗茂と中国の小早川隆景らの連合軍は肥後の勢力、三加和 の和仁親実との戦いで和仁親実の田中城が落とし、12月26日には 隈部親永・親泰父子の山鹿の城村城を開城、降伏させて肥後の騒乱 は終息した。 この時の秀吉の掃討で隈部親永・親泰父子とその家臣団は立花宗茂 に預かりとなり、柳川城下に蟄居させられていたが、天正16年5月26 日秀吉は一族12人に処刑を命じた。 隈部一族は隈部親永・隈部親泰・隈部善良・牧野某・辻某・長谷川某・ 本荘某・落合某・鶴某ら12人であった。このなかの隈部善良の実兄 新田掃部介は立花宗茂につかえていたのである。そこで宗茂は新田 掃部介を呼んで「太閤殿下より隈部親永に対し降伏すれば所領安堵の 思し召しとのことであったが、明日討ち果たすこととなった。しかしながら 、隈部善良は隈部親永・親泰父子とともに死ぬ必要はない。志を変えれ ば粗末には扱わない」旨、善良に伝えてくれぬかといった。早速、掃部介 (かもんのすけ)は弟善良に会い宗茂の意向を伝えたが、弟善良は「兄と して尊敬しているあなたが、私が助命でもいたしたならば、むしろ諌める べきところ、宗茂様のご命令によりこのようなことを伝えにこられること 自体無念の思いがいたします。」と言った。掃部介は弟の毅然とした態度 を宗茂に報告したら、宗茂は益々善良の命が惜しくなり、直筆の書状を 十時摂津を使者として差し向けたが善良は会おうともしなかった。 ここに至って宗茂は隈部親永・親泰父子ら一族12人に名誉あり武士とし ての最後をと考え「放し討ち」を行うこととした。「放し討ち」とは一対一、 または同数による果し合いのことである。この場合、隈部一族は12人 であるため、討つ側も12人にし、十時摂津、十時勘解由、十時伝右衛門 連久、池辺龍右衛門、池辺彦左衛門貞政、新田掃部介、内田忠兵衛、 安東五郎右衛門、安東善右衛門常久、石松安兵衛、原尻(古庄)宮内 鎮勝、森又右衛門、を選抜し、黒門内側の三の丸広場に待機させた。 5月27日午前10時、「目通りしたい儀がある」という宗茂の命をうけて 隈部12人が出頭してきた。「殿の下知により、只今討ち果たす」と宣言に 始まり、すでに覚悟を決めていた隈部一族と「黒門の戦い」がはじまった。 謀叛の罪では無く名誉ある戦死を贐にしようとする宗茂の意向が明らか であった、隈部親永は老齢であったが、大した抵抗もせず討たれ、他の 10人も討ち取られてしまった。それまで太刀を打ち払っていた善良が一 人になると、柳川城東南隅にある「巽の櫓の桟橋」で観戦していた宗茂に 善良は一礼して首をだしたまま突っ立ったままであった。これを見た宗茂が 「善良を生け捕りにいたせ!」と命令原尻宮内が背後から捕らえようとした ら「情けなや!」といって太刀をはらったら、宮内の右腕を切った。すると 善良は「主人の最後を見届けたので、悔いはないこの筑後入道の最後を 見よ!」と言って、太刀を胸に突き立て自決した。 この戦いで立花側は森又右衛門が死に全員が傷を負った。 この戦いの様子を宗茂とともに見ていた検視役の浅野長政は秀吉に「放し 打ちの勝負とはこれまで聞いた事も無く見たことも無かった。本当に恐ろし い戦いであった」と報告すると、秀吉は「さすがは立花である」と宗茂を 絶賛した。 その後、この一揆の責任を問われ佐々成政が切腹してはてた。 |
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