源頼朝の奥州藤原泰衡討伐の遠征
![]() |
奥州平泉の藤原泰衡は平泉の安寧のために、源義経を襲って
自害させました。しかし、鎌倉の源頼朝にとっては全国制覇のため
には藤原泰衡の行動は絶好の都合でした。
頼朝は義経の首が届いてから一ヶ月後に奥州攻撃に出発します。
そして、1189年、文治5年8月7日、平泉の主防衛戦の阿津賀志山
の防塁にぶつかり、「阿津賀志山の戦い」の火蓋が切って落とされました。
この戦いの状況を「吾妻鏡」は
阿津賀志山の陣
8月7日
七日 甲午 二品(頼朝)、陸奥国伊達郡阿津賀志山の辺国見駅に著御。 しかるに半更に及びて雷鳴す。御旅館に霹靂あり。 上下恐怖の思ひをなすと云々。 泰衡、日来二品発向したまう事を聞き、阿津賀志山において城壁を築き、 要害を固め、国見宿とかの山との中間に、にはかに口五丈の堀を構へ、 逢隈河の流れを堰け入れて柵とし、異母兄西木戸太郎国衡をもって大将軍となし、 金剛別当秀綱、その子須房太郎秀方己下二萬騎の軍兵を差し副ふ。 およそ山内三十里の間、健士充満す。 しかのみならず、苅田郡においてまた城郭を構へ、名取・広瀬の両河 に大縄を引きて柵とす。泰衡は国分原・鞭楯に陣す。 また栗原・三迫・黒岩口・一野辺には、若九郎大夫・余平六己下の郎従 をもって大将軍となし、数千の勇士を差し置き、また田河太郎行文・ 秋田三郎致文を遣はして出羽国を警固すと云々。 夜に入りて、明暁泰衡が先陣を攻め撃つべきの由、 二品内々老将軍に仰せ合はせらる。 よって重忠相具するところの疋夫八十人を召し、 用意の鋤鍬をもって土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。 あへて人馬の煩ひあるべからず。 思慮すでに神に通ずるか。小山七郎朝光、御寝所の辺を退き、 兄朝政が郎従等を相具して、阿津賀志山に到る。 意を先登に懸くるによってなり。 *阿津賀志山のところに堀を巡らした防塁が造られていることが情報として 入っていたのでしょうか?畠山次郎重忠は人夫に鋤・鍬を用意させておき ました。これで堀を埋めております。 八日 乙未 金剛別当季綱、数千騎を率して阿津賀志山の前に陣す。 卯の剋、二品まづ試みに畠山次郎重忠・小山七郎朝光・加藤次景簾・ 工藤小次郎行光・同三郎祐光等を遣はして、箭合せを始む。 秀綱等これを相防ぐといへども、大軍襲ひ重なり攻め責むるの間、 巳の剋に及びて賊徒退散す。 秀綱大木戸に馳せ帰り、合戦敗北の由を大将軍国衡に告ぐ。 よっていよいよ計略を廻らすと云々。 ここに常陸入道念西が子息常陸冠者為宗・同次郎為重・同三郎資綱・ 同四郎為家等、ひそかに甲冑を秣の中に相具して、伊達郡沢原の辺に進み出で、 先登して矢石を発つ。佐藤庄司等死を争ひて挑み戦ふ。 為重・資綱・為家等疵(きず)を被る。しかれども為宗殊に命を忘れて攻め戦ふの間、 庄司己下宗(むねと)の者十八人の首、為宗兄弟これを獲て、 阿津賀志山上の経が岡に梟するなり云々。 今日早旦、鎌倉において、専光房二品の芳契に任せて、御亭の後山の攀ぢ登り、 梵宇の営作を始む。まづ白地(あからさま)に仮柱四本を立て、観音堂の号を授く。 これ御進発の日より廿日たるべきの由、御旨を蒙るといへども、 夢想の告によってかくのごとしと云々。 しかるに時剋おのづから阿津賀志山の箭合せに相当たる。奇特といひつべしと云々。 |
源頼朝の軍勢は3手に別れて奥州の攻撃に出発しました。
総軍28萬の大軍です。このうち、頼朝は中路(大手)を進みました。
この報を聞き、藤原泰衡は阿津賀志山に城柵を構えます。
この柵は二重堀とも言われております。
堀は阿津賀志山から阿武隈河までの約4Kmの長さに渡っております。
堀は2本あってその前後に土塁が築かれておりました。
そして、この堀の中に阿武隈川の水を流し込んでおりました。
この阿津賀志山の柵の大将は西木戸太郎国衡で、2萬騎の兵士で守って
おりました。泰衡は後方の国分原・鞭楯(仙台市)に陣を構えておりました。
そして、名取・広瀬の両河に大縄を引いてて柵としており、それ以外にも
刈田郡・栗駒郡などの要地にも兵を配置して迎撃体制をとっておりました。
阿津賀志山を守っていた平泉方の金剛別当季綱らは防ぎ戦いますが、
頼りにしていた堀が前の晩に埋められていては押し寄せる大軍の前に
抗すべくもありませんでした。
ついに、畠山次郎重忠らの猛攻に堪えられなくなって退却します。
これによって、国衡が頼りにしていた要害の一画が崩れ、平泉勢は阿津
賀志山の城を明け渡して、国衡の陣に退却しました。
また泰衡が郎従信夫佐藤庄司、叔父河辺太郎高綱・伊賀良目七郎高重等を相具し、
石那坂の上に陣す。湟を堀り、逢隈河の水をその中に懸け入れ、柵を引き、
石弓を張り、討手を相待つ。
石那坂の陣では平泉方の佐藤庄司らが陣を構えておりましたが、常陸冠者為宗ら
がこの陣の背後に回って攻撃を加えました。このため、佐藤庄司等は勇戦空しく
敗れております。
九日 丙申 夜に入りて、明旦阿津賀志山を越えて合戦を遂ぐべきの由、 これを定めらる。ここに三浦平六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・ 狩野五郎親光・藤沢次郎清近・河村千鶴丸(季清)以上七騎、 ひそかに畠山次郎が陣を馳せ過ぎ、この山を越えて前登に進まんと欲す。 これ天曙(あ)くるの後、大軍と同時に険阻を凌ぎがたきが故なり。 時に重忠が郎従成清、この事を伺ひ得て、主人の諫めて云はく、 今度の合戦に先陣を奉ること、抜群の眉目なり。 しかるに傍輩の争ふところを見て、温座したがたからんか。早くかの前途を塞ぐべし。 しからずんば事の由を訴へ申し、濫吹(らんすい)を停止して、この山を越えらるべしと云々。 重忠云はく、その事然るべからず。たとひ他人の力をもって敵を退くといへども、 すでに先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戦は、皆重忠が一身の勲功たるべし。 かつは先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意にあらず。 かつはひとり抽賞を願ふに似たり。ただ惘然(ぼうぜん)をなすこと神妙の儀なりと云々。 七期は終夜峯嶺を越え、つひに木戸口に馳せ著き、おのおの名謁(なの)るのところ、 泰衡が朗従伴藤八己下の強兵攻め戦ふ。 この間に工藤小次郎行光先登す。狩野工藤五郎命を殞(おと)す。 伴藤八は六郡第一の強力の者なり。行光相戦ひ、両人轡を並べて取り合ふ。 しばらく死生を争ふといえども、つひに行光がために誅せらる。 行光かの頚を取りて鳥付(とつつけ)に付け、木戸を差して登るのところ、 勇士二騎馬を離れて取り合ふ。行光これを見て、」轡を廻らしその名字を問ふ。 藤沢次郎清近、敵を取らんと欲するの由これを称す。 よって落ち合ひ、相共に件の敵を誅滅するの後、両人駕を安んじて休息するの間、 清近、行光が合力を感ずるの余り、かの息男をもって聟となすべきの由、 楚忽の契約をなすと云々。 次に清重ならびに千鶴丸等、数輩の敵を撃ち獲たり。 また親能(中原)が猶子左近(大友)将監能直は、当時殊なる近仕として、 常に御座右に候ず。しかるに親能兼日に宮六イ/兼仗国平を招き、 談じて云はく、今度能直戦場に赴くの初めなり。 汝扶持を加へて合戦せしむべしてへり。よって国平固くその約を守り、 去夜ひそかに二品の御寝所の辺に推参し、能直を喚び出し、 これを相具して阿津賀志山を越え、攻め戦ふの間、 佐藤三郎秀員父子を討ち取りをはんぬ。 この宮六は、長井斉藤別当実盛が外甥なり。 実盛平家に属し、滅亡の後、囚人となる。 始め上総権介廣常(平)に召し預けられ、廣常誅戮せらるるの後、 また親能に預けらる。しかるに勇敢の誉あるによって、 親能子細を申して能直に付せしむと云々。 十日 丁酉 卯の剋、二品すでに阿津賀志山を越えたまう。 大軍木戸口に攻め近づき、戈を建て箭を傳ふ。 しかれども国衡たやすく敗傾しがたし。 重忠(畠山)・朝政(小山)・朝光(結城)義盛(和田)・行平(下河辺)・成広・ 義澄(三浦)・義連(佐原)・景廉(加藤)・清重(葛西)等、武威を振ひて身命を弃つ。 その開戦の聲、山谷を響かし郷村を動かす。 ここに去夜、小山七郎朝光ならびに宇都宮左衛門尉朝綱が郎従、 紀権守・波賀次郎大夫己下七人、安藤次をもって山の案内者となし、 面々に甲(よろひ)を疋馬に負はせ、蜜々に御旅館を出で、 伊達郡藤田宿より会津の方に向ひ、土湯の嵩(たけ)・鳥取越を越え、 大木戸の上、国衛が後陣の山に攀ぢ登り、時の聲を発ち箭(や)を飛ばす。 この間城中大いに騒動し、搦手襲ひ来るの由を称す。 国平以下の辺将、構塞に益なく、謀を廻らすに力を失ひ、 たちまちにもって逃亡す。 |
三浦平六義村以下7騎は先陣の畠山次郎の陣を抜き駆けして先駆けの功を得
ようするのを重忠の郎従成清が見つけ、畠山次郎に報告しますが次郎は
これを見逃します。
頼朝はもう阿津賀志山を越えて攻撃しますが、国衡勢は抵抗を
続けてなかなか勝負がつきませんでした。
ところが安藤次を山の案内者として小山七郎朝光らは背後に回って鬨の声を
あげます。城兵は後が破られて攻撃されたと思って浮き足立ってしまいます。
平泉方は総崩れになって、落ちていきました。
鎌倉方の奇襲作戦がみごとに奏功しました。
時に天曙(あ)くといへども霧に隔てらる。 秋山影暗く、朝路跡滑らかにして、両方を分たざるの間、 国衡が郎従等、網を漏るるの魚の類これ多し。 その中に金剛別当が子息下須房(かすほ)太郎秀方(年十三)残り留まりて防戦す。 黒駮(くろぶち)の馬に駕し、敵に鬣(たてがみ)を向けて陣す。 その気色掲焉(けちえん)なり。 工藤小次郎行光、馳せ並ばんと欲するの剋(きざみ)、行光が郎従藤五男、 相隔たりて秀方に取り合ふ。この間、顔色を見れば幼稚の者なり。 姓名を問ふといへども、あへて詞を発せず。 しかれども一人留まるの條、仔細ありと称してこれを誅しをわんぬ。 強力の甚しきこと若少に似ず。相争ふのところ、対揚することやや久しと云々。 また小山七郎朝光、金剛別当を討つ。その後退散の武兵等、 泰衡が陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大いに敗るるの由これを告ぐ。 泰衡周章度を失ひて逃亡し、奥の方に赴く。国衡もまた逐電す。 二品その後を追はしめたまふ。扈従(こしょう)の軍士の中に、 和田小太郎義盛、先陣に馳せ抜け、昏黒に及びて芝田郡大高宮の辺に到る。 西木戸太郎国衡は出羽道を経て大関山を越えんと欲す。 しかうして今かの宮の前路の右手(めて)の田の畔を馳せ過ぐ。 義盛これを追ひ懸け、返し合はすべきの由を称す。 国衡名謁(なの)らしめ、駕を廻らすの間、互ひに弓手に相逢ふ。 国衡は十四束の箭を挟み、義盛は十三束の箭を飛ばす。 その矢、国衡いまだ弓箭を引かざるに、国衡が甲の射向の袖を射融して、 膊(かひな)に中(あた)るの間、国衡は疵を痛みて開き退く。 義盛はまた殊なる大将軍を射るによって、思慮を廻らし、ニの箭を構へて相開く。 時に重忠大軍を率して馳せ来り、義盛・国衡の中を融つ。 重忠の門客大串次郎、国衡に相逢ふ。 国衡駕するところの馬は奥州第一の駿馬。高楯黒と号するなり。 大肥満の国衡これに駕し、毎日必ず三ヶ度、平泉の高山に馳せ登るといへども、 汗を降(くだ)さざるの馬なり。 しかるに国衡、義盛が二の箭を怖れ、重忠が大軍に驚き、道路を閣(さしお)き、 深田に打ち入るるの間、数度鞭を加ふといへども、馬あへて陸に上る能はず。 大串等いよいよ理を得て、梟首(けうしゅ)はなはだ速やかなり。 また泰衡が郎従等、金十郎・勾当八・赤田次郎をもって大将軍となし、 根無藤の辺に城郭を構ふるの間、三澤安藤四郎・飯富源太己下、 なほ追奔して攻め戦ふ。凶徒さらに雌伏の気なし。 いよいよ烏合の群を結び、根無藤と四方坂との中間において、 両方進退七ヶ度に及ぶ。 しかるに金十郎討ち亡ぼさるるの後、皆敗績す。 勾当八・赤田次郎己下、生虜参拾人なり。 この所の合戦無為(ぶゐ)なるは、ひとへに三澤安藤四郎の兵略にあるものなり。 |
泰衡は阿津賀志山の陣が敗れたとの報に接して、周到狼狽して
鞭楯からも退却してしまいます。
国衡も北へと退却している途中の田の畔で和田小太郎義盛に
追いつかれます。
深田に馬を入れてしまって進退窮まって、首をとられました。
金十郎・勾当八・赤田次郎らが立て籠もった根無藤の城も陥落してしまいます。
この阿津賀志山の戦いの功労者としては三澤安藤四郎が挙げられております。
大将泰衡は玉造郡から平泉の舘に戻りましたが、鎌倉勢の追撃はすさまじく、
部下もほとんど討ち滅ぼされてしまってこれ以上の抵抗は不可能と悟りました。
泰衡は平泉の町に火を放って焼いてしまいます。
![]() |
![]() |