津軽安東氏
一般に奥州安倍貞任(さだとう)の子高星丸(たかあきまる)が前九年
の役で津軽に逃れて子尭恒(たかつね)が寛治年間(1089〜93)に
藤崎城を築造し、安東氏の基盤を築いた。
寛喜元年(1229年)尭恒の子孫貞秀は津軽十三湊をてにいれ、貞秀
の孫愛李(よしずえ)は本拠を十三湊に移し、福島城にうった。
後に秋田に移り、繁栄をした。
安東氏の称号は秋田系図に「貞秀よりこのかた安東太郎をもって当家
の仮名(かめい)とする。とあるから譜記からみて、貞秀から安東を称し
ていたようである。豊後の安東常輝が、関東より下向した年1196年より
35年もの後年である。
関東の安東氏の一族(九州安東氏の祖)が津軽に赴任したと考えるほう
が、正解と私は考える。
吾妻鏡には「先祖安東五郎と云うもの、東夷の堅めに義時が代官
として津軽に置きたりけるが末なり。
とある。
北条義時は1163年に北条時政の次男として生まれ、1205年執権につ
いた、1224年に死去。したがってこの間に東夷、すなわち蝦夷の管領
として任命されたのである。
一般に、津軽で勢力があった安東氏を任命したものであると解釈されて
いるが、「津軽に置きたる」とは義時の意志によって任命されたとみるべ
きであろう。
また、このときから津軽安東氏は安東を称しているようで、鎌倉(関東
)や豊後に安東氏が存在していろにもかかわらず、あえて安東を称する
には疑問がある。
なぜなら、安倍の末裔であるにもかかわらず、なぜ、安東を称するのか。
これについての説明はいまのところ出来ていない。
この件について江戸幕府の時、幕府重臣が秋田氏系図(秋田氏は
別称安東)のことに触れている。やはり当時でも疑問があったはずであ
るが、秋田安東氏は安倍の末裔を押し通したため、幕府もそれ以上の追求
はせずにいた。
しかし、これが後に秋田安東氏は秋田から常陸に国替えとなってしまう。
安倍氏は俘囚の末裔である。俘囚とは蝦夷であり、古来前九年の役で
知られるように中央政権にとっては朝敵とされてきた。
そのような出自であるにもかかわらず、義時は蝦夷の管領に任命するで
あろうか?
源義家が九年もの歳月をかけて奥州に勢力を注いだ結果、安倍貞任を
討ち取り終結したが、その首に8寸釘を打って、長年の怨念を晴らしたとある。
その後、孫の頼朝が奥州藤原氏を討伐した時も、同様にしたとある、
このような状況に津軽に勢力を持っていたとすると、安倍氏の末裔が頼朝の
耳にはいらないはずはなかろう。
後になって安倍の末裔であるとしたのであろうか?
それであれば理解はできるけれども・・・。
それよりも、藤原討伐の阿津賀志山の戦いで一番の功績のあった安藤
四郎、または次郎に恩賞として、津軽をあたえたと考えられる。
役職は与えられないがそれを了解して入部し、出自を偽って俘囚であると
したほうが、蝦夷に対して柔和対策をとれたと考えられる。
奥州藤原平定後、津軽には鎌倉の御家人、曽我氏、安藤氏、工藤氏、横溝氏が
入部したとある。
この御家人は鎌倉の北条氏に近侍しなければならず、津軽安東氏の
ことだけが例外であるとは考えられないのである。
いずれにしても疑問の残る津軽安東氏である。