信濃の安東氏・安藤氏
安東貞美(ていび)
飯田藩家臣の安東家は仙四郎政次が天明四年十人扶持で槍術師範に召し抱えられた。
子の猪三太辰置も槍術師範と吟味役を務め十三人扶持。
その後は松本藩士菅沼尉右衛門政治の三男が婿養子に入り、同家長女志記と結婚して
三喜次辰武と称し、同じく槍術師範となった。
辰武と志記の間に欽一郎が生まれ、志記が亡くなった後、妻島地菊子との間に直平、貞美、
武雄が生まれた。
辰武の跡は欽一郎が継ぎ、槍術師範、近習を務めた。
次男直平は柳田家の養子に入り、のちに大審院判事となる。三男貞美は大阪兵学校寮に入り
のち陸軍大将、台湾総督を務め男爵となった。
四男武雄は東京共慣義塾に入学し、のち中学校や陸軍幼年学校教師となる。
四人の男の子を育てた菊子は賢夫人として知られる。(伊那人物誌稿など)

安東仙四郎政次----猪三太辰置----志記(長女)(死亡)
  (飯田藩士)                |--------欽一郎
         菅沼尉右衛門政治----三喜次辰武(養子)
           (松本藩士)       |------------直平(柳田家に養子) 
                        島地菊子 |
                                +-----貞美(台湾総督、陸軍大将)
                                |
                                +-----武雄(陸軍幼年学校教師)
更埴市の安藤氏
更埴市雨宮の安藤清一家は家伝によると一族は本姓藤原で
初代は安藤日向守と称し、九州から一族を率いて当地に来住し、
現在まで29代続くという。
江戸時代は士身分を持ち、農業のからわら質屋を営み、代々
埴科(はにしな)郡雨宮の名主を務めたという。
26代安藤善太郎