安東円恵
 武将の法体肖像画のうち、特に禅宗の頂相に倣う形式のものは、
鎌倉幕府の執権北条時頼(ほうじょうときより)をはじめとする北条
得宗家の禅に対する深い理解を契機にして、時頼の没年(1263)
頃にはじめて成立した。以降、得宗家の頂相形式の肖像画は
鎌倉時代を通じて展開したが、本図もその系譜に倣うものと考
えられる。
 安東円恵(1285〜1343)は、鎌倉幕府の有力な武将で六波羅
探題の被官である。俗名は安東治右衛門助泰という。はじめ在俗
の居士となり晩年には禅僧南叟円恵として上野国長楽寺に住した。
得宗家被官、御内人の安東蓮聖(1240〜1330)の子である。
 像容は頂相に同じで、法被をかけた椅子の上に趺坐し、面相は
細勁な墨線で描写し、ひかえめな隈取りを施している。特に面貌は
対看写照の厳しさを見せている。小花文を散らす着衣は豪華な
舶載の裂、当時の唐物趣味をかいま見せる。上部には賛文がある。
図は円恵が居士の時のものであり、禅の法嗣に与える頂相では
ないから自賛とはせず、ちょうど元徳元年(1329)に中国・元から
来朝した臨済宗楊岐派松源派の高僧である明極楚俊(みんきそ
しゅん)の着賛を得ている。俊明極は翌元徳二年の春頃には鎌倉
建長寺に住した。ちなみに円恵はこの時父蓮聖の肖像画(遺像)
とかつて久米田寺に住した禅爾(ぜんに)の肖像画(現存しない)
と併せて三幅に賛を請うている。賛と像主の関係は像主の記念を
目的とする遺像における関係に同じである。すぐれた肖像画である
と同時に、明極楚俊の墨跡としても注目される