安房南部・あわぐん
安房郡
安房郡(あわぐん)は現在の那古(なご)・船形(ふなかた)地区を除く
館山市(たてやまし)、三芳村(みよしむら)の稲都(いなみや)地区、
白浜町(しらはままち)の長尾(ながお)地区のことをいいます。神余氏
(かなまりし)が勢力をもっていたとされています。平安時代の末には
金鞠(神余)(かなまり)氏・沼(ぬま)氏がいて、鎌倉時代の御家人
(ごけにん)には金摩利(神余)(かなまり)氏・安東氏(あんどうし)の名が。
神余氏は安房郡南部(あわぐんなんぶ)の神余郷(かなまりごう)
(館山市神余)の武士で、沼氏は沼之郷(ぬまのごう)(館山市沼)、
安東氏は安東郷(あんどうごう)(館山市安東)を本拠とする武士でした。
みなその力を持つ場所の地名を苗字にしています。安東(あんどう)は
安房郡の東部の意味ですが、安西はそれに対応する地名で安房郡の
西部のことになりますから、安西氏の拠点(きょてん)はもとは安房郡に
あったのでしょう。また北条城(ほうじょうじょう・館山市)や船形城
(ふなかたじょう・館山市)には安西氏のいいつたえもあることから、
鏡ヶ浦の海上交通は安西氏がおさえていたことになります。
千手院(館山市安東)
安東氏の拠点安東郷にある「やぐら」。やぐらの中には、石造の千手観音
を本尊に文和二年(一三五三)の石造地蔵尊などがまつられて、千手院の
本堂になっている。その真上には南北朝期の宝篋印塔が据えられており、
安東氏との関係が指摘されている。
姫ケ井(三芳村池之内)
安房の有力武士だった安西氏の拠点は池之内の平松城にあり、そのふもと
には伊豆から逃れてきた源頼朝をかくまうためにつくったという伝承がある隠
れ井戸「姫ケ井」が残されている。
安房東部・あさいぐん
朝夷郡
朝夷郡(あさいぐん)は現在の白浜町(しらはままち)白浜地区(しらはまちく)、
千倉町(ちくらまち)、丸山町(まるやままち)、和田町(わだまち)、鴨川市
(かもがわし)の江見(えみ)地区のことをいいます。戦国時代には丸郡
(まるぐん)と呼ばれていたこともありました。朝夷郡(あさいぐん)は丸
(まる)氏が力を持っていた場所です。
丸氏は平安時代から丸山川(まるやまがわ)流域を開発して大きくなった武士。
源氏がはじめて東国で与えられた領地がこの丸地区(丸山町)だったこともあって、
源氏とのつながりは強く、鎌倉時代に御家人になりました。
朝夷郡のなかには、鎌倉時代から三浦氏(みうらし)がいたり、室町時代には三浦
一族の真田氏(さなだし)がいた場所もあります。太平洋(たいへいよう)に細長く
面しているというのが朝夷(あさい)郡の特徴。太平洋(たいへいよう)の海上交通
を握るために、何人もの権力者たちがはいりこんできた地域です。
安楽寺(丸山町丸本郷)
丸氏惣領家の菩提寺。裏山が丸氏の居城と伝えられている。本堂の背後には
「やぐら」が多数つくられている。丸山川流域には丸一族が勢力をひろげ、ゆかり
の寺院ややぐらが多い。
今の鴨川・ながさぐん
長狭郡
長狭郡(ながさぐん)は現在の江見(えみ)地区を除いた鴨川市(かもがわし)と
天津小湊町(あまつこみなとまち)のことをいいます。東条氏(とうじょうし)が力を
持っていました。
東条氏(とうじょうし)は鎌倉時代の東条郷の武士で、御家人。しかし、鎌倉時代
(かまくらじだい)以前は長狭郡(ながさぐん)の郡名を苗字にした長狭氏(ながさし)
が郡全域に勢力をもっていて、安房最大の武士団(ぶしだん)でした。その長狭氏は
平家側だったので、源氏側の三浦氏と対立、頼朝上陸の際に滅ぼされてしまいました。
そのため、三浦氏の力が長狭郡におよびましたが、その後北条氏一門が進出しました。
東条氏は北条氏一門の家臣になって成長しました。このほかに、天津には工藤氏
(くどうし)、室町時代になると内陸部に千葉氏(ちばし)の勢力があらわれます。
金山城跡(鴨川市打墨)
平安時代の末、源頼朝に平家方である長狭氏が滅ぼされたあと、長狭地域に勢力
をもったのが東条氏だった。その東条氏の本拠地とされている。
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