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今月のコート( 従来版 ) / 来月のコート
会計報告 (2023年12月分)
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★ 明けましておめでとうございます ★
次回 1/5 水 10:00-12:00 川内 ②+⑦
前回 12/27 水 10:00-12:00 川内 ③ + ④(←①)
参加者 8 安部 大森 戒能 後藤 宍戸 新谷 永沼 三浦

2023 / 5 / 31 ★ チャールズ・ライト・ミルズ<ホワイト・カラー(東京創元社 1957)>は20世紀アメリカ人の書いたものとしては相当な力作 その中に非常に重要なことが書かれている 少し長くなるが引用する ー 「現代[20世紀半ば]のアメリカにはかつて旧中流階級の中心メンバーであった小企業家がもっていた労働倫理 [ ヴェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理 ] は見当たらない この事実は旧中流階級の社会的没落をもっとも端的に示す心理現象である 」 + 「同時に歴史的にはその古い労働観に次いで現われた職人気質―つまり労働の過程そのものに意義と満足を見出す職業倫理―も新中流階級には認められない しかし古くはトルストイやラスキン 最近ではベルグソンやソレルによる労働者の満足度についての真剣な考察の背後には 漠然とではあるがたしかにこの職人気質的考え方が存在している したがってホワイト・カラーの生活には何故に職人気質が存在しえないかを理解しひいては彼らの実態を知るためにここで職人気質についてやや詳細に考察することは無駄でないと信ずる」 + 「職人気質に関する多くの考察においてその技術的および美的条件と労働対生産物の法的所有関係とが混同されている しかし職人的労働にとってもっとも重要な条件は生産物と生産者との心理的結合である かりに生産者が法的には生産物を所有しなくても彼はそれが作られるのにどれだけの技術と汗と物質とが注ぎこまれたかを知っているという意味でまた自分自身の技術と汗とが生産物を通して彼の目には見えるという意味で彼はその生産物を所有しているに違いない 」 ― 表現がまだるっこしいが要するにミルズの言わんとするのは労働の喜びというのは労働そのもの(やり甲斐)のうちになければ人間に満足を与えぬということだ 当たり前のことである 満足がゆかなかったからこそわれわれは自分の人生がなにかオカシイと感じていた そして定年して仕事を辞めてからでもア~でもないコ~でもないと悩み続けている 個人的なことを言えば自分は独法化によって大学教師がサラリーマン化し研究職人としての使命を忘れていることを嘆いてきた 社会の中で社会の中に溶け込みなおかつ個人としてひとり立ちしながら生きていくには人間的生存の根本的な条件である生産的で有意義な人間的な活動に従事していなければならない 生産というのはなにも物品(ハード)を作り出すことばかりではない 自然のうちにまた自然のうちにある社会のうちに何かを創み出すことである そして自らが創み出したそれが自然にも社会にも役に立つようなものであったならそれに越したことはないだろう そう ここまで踏み込んで考えなければ<ホワイト・カラー>論など新聞の三面記事あるいは週刊誌や通俗小説のスキャンダラスな物語ネタでしかないのである ドライサーの<アメリカの悲劇>などを考えていただきたい 十分な満足を得ることのできない今の若者たちの今の日本社会が与えるやり場のなさ 老人のやり場のなさはもちろんのことだがそれもなんとかしなければ社会が立ちゆかないような気がする 手ごたえのある生活 それはホワイトカラーやサラリーマンのブルシット(グレーバー)の生活でないことだけは確かである : 第一次大戦後のアメリカのパワー・エリート体制へと至る過程をミルズはトクヴィルの言う強い州議会から始めて諄々と説く 要するに中間階層が農場経営者から労働階級指導者やホワイトカラー層などを経て階層間の均衡が次第に崩れ骨抜きにされていくところからアメリカの政治は全国規模のパワー・エリート政治へと変わって行く 組織化され管理体制化された現代先進国の政治システムはほぼこの企業優先のパワー・エリートたちの政治体制へと変貌 若い世代の人たちの現実離れした得体の知れぬ不気味さとも相俟って現代社会のこういった大規模化による抽象化への歩みはIT技術の世界化によって益々促進されている ひとびとは未だこういった変化に十分適応できていない ヘーゲル&マルクスの言う<疎外>状態である ミルズが言う社会とは均衡し合う社会ではなく拮抗し合う社会 均衡し合う社会(経済や政治) スミスが言うそんな社会が維持できるはずがない 力関係が少しでも歪めばそこに揺れが生じる 社会が階層化し支配被支配の関係が生まれる 現代社会でそのトップ階層に属するのがパワー・エリートたち 今の日本なら<内閣官房>という首相を補佐する素性や得体の知れぬ人たち 議会ではなく大企業(実業界)を優先する行政部門そのもの(内閣と内閣官房そしてその息のかかった種々の委員会)が社会を支配する アメリカと日本はその歴史こそ違え戦後益々似たような社会構造になっている ミルズが指摘するパワー・エリートたちの<独走体制>である トランプや安倍そしてプーチンや習近平 歴史の違うそれぞれの国の昨今のトップたち <体質>こそ違え似たような<体制>を築いていたしまた築いている : チャールズ・ライト・ミルズ<パワー・エリート(上下二巻 東京大学出版会 2000)>(下巻 167頁)中に1950年代のアメリカ政治について論じた次のような文章が出てくる まるで現代の世界また日本の政治を予見しているかのような言葉である ー 「この三者[政財軍]のうちのいずれかがリードするかはかれらすなわちエリートが規定する<その時期の課題>如何に依存している 現在ではこの課題は<防衛>と<国際問題>に集中している したがってすでに述べたように二つの意味で軍部の台頭が見られる すなわちエリートの構成員としてまたエリートを正統化するイデオロギーとしてである 現在の権力エリートの統一と形態が軍部の台頭という点からもっとも容易に説明できる理由はまさにここにある」 ー 日本では軍部の台頭はまだこれからのこと 今のところ経済優先の大企業寄りの政治が続いている だが特殊な日本以外になら軍部の台頭はすでにあらゆるところで見られる ロシアのウクライナ侵攻やミャンマーの軍事政権その他の独裁専制はその代表に過ぎない アメリカ政治のパワー・エリート化が始まったのが第二次世界大戦後だったとすれば日本のそれはロシアのウクライナ侵攻後ということになるだろう + 「単純なマルクス主義者の見解は大財界人が権力の真の保持者であるとしている また単純な自由主義的見解はまさに大政治家自体が政治体制の首領であるとみなしている さらにある人々は将軍たちこそ事実上の独裁者であるとみるだろう これらの見解はいずれも過度に単純化された見解である われわれがたとえば<支配階級>という言葉のかわりに<権力エリート>という言葉を用いているのはこのような見解を避けるためである」 ー 権力エリートが従来のたたの権力集団(権力階層さらに権力階級)ではないこと またその決定が国家全体の大きな問題であるのにつねに独断的に行なわれること つまり民主政治下の独裁として現われること それらを可能にしているのはすべてミルズの言うこの<権力エリート>という現代特有の支配集団があればこそである 権力エリートは組織内や組織間を仲介調停する正体や素性の知れぬ不気味な権力集団である しかしそれが存在できるのは組織が未成熟でありわれわれがまだその体制に慣れ親しんでいないからだろう われわれはその組織の穴や罠を徹底的にチェックし少しでもその整備を計っていくほかはない またこの権力エリート集団の解体をそのつど行なっていくほかはない 東電や電通など実に悩ましいところである : デヴィッド・グレーバー<民主主義の非西欧起源について(以文社 2020)>を読了 西欧民主主義を金科玉条とする欧米人たちの幻想を打ち砕く アテナイの自由民たちの民主投票による政治を<民主主義>と言う だが西欧近代国家が自分たちはそれを追求していると言い始めたのはようやく19世紀のこと しかもそのご立派なアテナイは実のところ奴隷と侵略戦争まみれの都市 その政治を<デモクラシー>と称し欧米人以外の未開な野蛮人たちに強要しながら彼らを侵略する とんだ面の皮 グレーバーの議論はいつも歴史上の出来事や物事の評価をめぐるもの 歴史的な事実を実証するものではない 欧米以外のどこかに真の民主主義があるという話ではないのだ 個人間・集団間において即興的に生じる人と人との自由で平等な人間関係・社会関係 それをシン民主主義と呼ぼうじゃないか でも自由で平等な人間集団がつねに良い集団であるとは限るまい ネガティヴな<悪の集団>でも自由平等であることはできる 何やらジャーナリスティックなお話 着眼は秀逸 読了後マルクス<哲学の貧困(岩波文庫 1950)>に戻る マルクスは亡命先のパリでプルードンと知り合い<経・哲草稿>を執筆していた1844年頃 彼にヘーゲル哲学を”講義”している その後ベルギーに亡命しその後現われたプルードン<貧困の哲学>に”抗議”する マルクスの<哲学の貧困>出版以後にふたりは絶交 そしてその頃からマルクスの歴史主義の考えもまとまってくる 人間は物質的自然に(労働の)手を加え生産活動(経済諸活動)を行なう その人間的活動(労働)をめぐって人間は矛盾対立し合いながら社会関係(人間諸関係)を形成して行く その社会関係の矛盾対立が原動力となり社会はその解消に向かって運動する その運動の軌跡が太古以来の人間(人類)の歴史である マルクスの唯物史観はそのスケールもスパンも圧倒的に大きい ヘーゲルの大風呂敷と同じ規模のデカさ 重箱の隅をつつくようにチマチマした細かいグレーバー 彼の<負債論>は五千年もの人類史を跡付てはいてもその個々の論点は意外と細かい やはり理論の射程(理論の一般性)がマルクスくらいデカくないと人類の歴史は捉え切れない 労働を人間による自然の加工改変の働き(活動価値)とする彼のその見方(労働価値論)はいずれ古典派経済学を刷新するはずだった しかし残念なことについ最近世界的な金融危機に見舞われるまで近代の経済学は相変わらず国民経済学・古典派経済学・ブルジョワ経済学の小市民的枠組みを脱しようとはしなかった 理論経済学に代わる最近の行動経済学の隆盛はある意味マルクス的な人間的な経済学の復興ではなかろうか それまでの経済学は経済大国(経済的勝ち組の国家)が自己正当化のためにこしらえ上げたご立派な御用経済学 なにやら最近の原発の原子力規制委員会やコロナの専門家委員会の連中みたいな御用学者たちのよう むろんたまたまヨイショになってしまうような人たちもいるだろうが卑しい御用商人(たかり連中)と言った手合いはいつだってどこだっているもの ー 春の陽に 木蓮の花 輝ける 🎾 2024年1月1日(月) 元旦 頌春 : <新HP=http://www.maroon.dti.ne.jp/a-files/>+<新HPに自動ジャンプ(約10秒後)>+乞<新HPブックマーク(お気に入り登録)> : 9:00起床 5.3℃ 1℃~8℃ 読書 グレーバー&ウィングロウ<万物の黎明>続き ユーラシア大陸で狩猟採集文化が農耕文化に変わるとき(BC3000~4000)その変化は急激に生じたわけではない これら両者の文化は互いに併存していた そのことは考古学的な遺跡調査によって明らかにされた建物の位置関係(豪勢な住居のないどんぐりの背較べのような住居跡)から判る 狩猟採集をする千人規模の集落が万単位の人口を持つ都市となりそれがそれらの集落において民主的な合議を行なって生活していたらしい そこに支配者を持つ農耕文化の集団が現われそれらの狩猟採集文化の都市を侵略していく 金属器時代に開発された農具や狩猟用具を武器として用い人類は支配者のいる古代国家を形成して行く そしてその過程はなぜか三四千年もの間続くのだ その間に何が変わるのか 自然と共に生きていたひとたちが自然を搾取するだけでなく人間をも搾取する国家集団を形成することになる 支配と侵略の暴力的な文化が<なぜか>世界を支配するようになる その<なぜか>が問題なのである お雑煮を食べ新年を寿ぐ よく生きられたその幸運に感謝 婆さん爺さんはこれからも頑張るのだ 読書続き メソポタミアの初期王朝における神殿は狩猟採集民族の都市の神殿から由来したらしい だからその文書記録には過去の無文字時代の事実が多少とも記録されている 神殿というのはどうも世界のほとんどの地域において<祭礼の場>であっただけだけなく<神々の住まう家>であったように思える だからその場で神事(祭りごと)が行われそれを運営管理維持するために僧侶・官吏・職人・芸人らが仕事をしまた民主的な集団ではそこが社会的弱者や貧困者の救済の場とされさらにまた色々な民主的な協議をする場となる 支配者独裁者である王はその合議制の長つまりは民主的な合議グループの長に<成り上がること>から生まれた これは独裁制の源がなんと代議制の民主主義だったということ 実に意外な盲点 だが現代の独裁者がほぼ選挙制(おそらくはその不正)で選ばれることを考えればごく容易に納得がいく もうひとつ気づいた 歴史の歩みは<偶然>ではないかということ ある社会が百ある可能性のうちの一つを選んだとする たとえば農業生産にその社会構成員の誰かが手を染めたとする それが他の社会構成員によって模倣伝播していく その可能性は色々 理論的に言えばその可能性は色々である だからそれを推測しながら選択が行われていくものと考えられる ところがそれらの可能性の詳細また正体というのは皆目不明 当の社会構成員たちにとってはまったく判らぬのである とすればそれを模倣するかどうかはどこかの誰かがきちんとした展望のもとにやれるようなこと(一個人の意志選択の問題)ではなくなる 農業生産をするかどうかは社会全体が<統計学的な選択>をするような形で選ぶしかない そのように考えねばならぬことになろう つまり社会の歩みというのは何らかの目標地点に向かって邁進していくような<必然的>な歩みではない そのことは実のところダーウィンの進化論が言わんとすることでもあってなんら意外なことではない 歴史のうちに何らかの目標点を思い描くのは間違いである それは人間の認知能力のうちにある<物語理性>による<見立て>のせいである そのことがおろそろ判ってきた われわれは得体の知れぬものをこれまた得体の知れぬ思考(物語理性)によってなるべく効率的に除去しようとしているのではないか といってそれは<錯覚>と言えるようなものではない <錯覚>にはそれと判る手堅い基準(実測値)がある だがこの<物語理性>にはそれが幻想だとかイデオロギーだと言って否定できるような手堅い基準はないのだ 明らかに間違いだと指摘できるケースはあるがどんな見立てであっても反証可能というわけではない 困ったものだ さあどうしようか これはわれわれの人生そのものではないか : 新型コロナ収束? ひき続き<インフル>と<インフレ>に気をつけよう!:東北大&仙台市等下水ウィルスによるコロナ予測 [12/25発表] 12/18 ~ 12/24 の予測感染者総数:(先週 9,559名→) 9,518名 + 厚生労働省定点把握 ー 全国 12/25~12/31 [12/22発表] : 宮城県 / 全国平均 = [2.98→] 3.65 / [3.52→] 4.15


活動内容
会員17名 ( うち休会2名:2024年1月1日見込 ) : 写真 / ビデオ
年間日程表 2015 全(済)
年間日程表 2016 前(済)
年間日程表 2016 後(済)
年間日程表 2017 前(済)
年間日程表 2017 後(済)
年間日程表 2018 前(済)
年間日程表 2018 後(済)
年間日程表 2019 前(済)
年間日程表 2019 後(済)
年間日程表 2020 前(済)
年間日程表 2020 後(済)
年間日程表 2021 前(済)
年間日程表 2021 後(済)
年間日程表 2022 前(済)
年間日程表 2022 後(済)
年間日程表 2023 前(済)
年間日程表 2023 後(今)